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松江 翠(児童文学者協会会員)
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尾崎翠の“恋人なるもの”高橋丈雄は、その後半生を四国・松山で送っている。翠が失意のうちに故郷・鳥取に帰り、ひっそりと余生を送ったように、戦後松山に居を定めた高橋もまた、中央の文壇を遠く離れ、消息不明と報じられていた。 昭和51年、脚本家・猪股勝人氏宛の公開書簡に、彼はこう書き出している。「死んではいませんでした。…」と。続いて「…およそ老境などというものとはかけ離れた心境で」「魂は絶えず文学へのパトスで、ひっかき回されています」と、ひたぶるに文学への道を邁進する現況を知らせている。 松山での高橋は、必ずしも健康や経済的に恵まれはしなかったが、懐の深い人柄もあいまって友人や恋人、彼を慕う多くの子弟に囲まれ、地方には稀有な演劇人、文学者として厚く遇され、死後も評価が高い。 年譜を繰って彼の足跡を追ってみよう。 |
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母のイトコに新派草分けの俳優がいたこともあり、高橋は早くから演劇に親しんだ。若き日には映画界に身をおいたこともあり、脚本を習作していたようだ。映画好きな翠と“話が合った”ゆえんだろう。23歳、初めて書いた戯曲「死なす」で彗星のごとく文壇にデビュー、以後、小説や戯曲にペンをふるう。隻眼のため、兵役を逃れることが出来たのは、運命のいたずらというものだろう。 戦禍をさけ妻の故郷・愛媛に疎開するが、のちにこの結婚は失敗に終わり、妻は幼い娘とともに出奔する。 戦後、民主主義の台頭、新しい文化復興のエネルギーは、のどかな地方都市・松山にも熱く渦巻いた。かつて中央の演劇・文学界で嘱望された高橋は、水を得た魚のように高校の演劇部や職場の演劇サークルの指導者として、東奔西走の日を送る。NHKや民放のラジオドラマの演出、脚本家として活躍し、かたわら劇団「かもめ座」を主宰する。その頃の仲間に、劇作家・坂本忠士、作家・洲之内徹、シェイクスピア研究家の安西徹雄、評論家・天野祐吉、俳優・露口茂、劇作家・光田稔、岡田禎子らがいる。劇団員ではなかったが、当時高校生だった監督・伊丹十三やノーベル賞作家・大江健三郎も交流があったはずである。 演劇ブームが去った60年代、高橋は再び松山に戻るが、その後は気さくな人柄や博学多識を買われ、読書会や文章教室の講師、文学サロンの主宰、文芸同人誌『アミーゴ』を創刊するなど、愛媛の文学風土に熱い種子を蒔き続け、後進の育成に力を注いだ。 文学サロンの熱心な“信徒”であった妙子というよき伴侶を得たが、彼女とも10年余りで死別、終生、家族とは縁遠い人であった。 昭和61年、彼を敬慕する同人たちに看まもられながら逝去。手厚く葬られ詩碑が建立された。著作も菊池佐紀、高須賀昭夫氏らの尽力により刊行されている。愛媛という温暖な地に安住の場をみつけた高橋は、最終的に幸せな文学者と断じても過言ではあるまい。 ちなみに松山での高橋は、かつての恋人・尾崎翠については、あえて封印したまま、77年に自身が編んだ年譜にもいっさい触れていない。 まったくの仮説であるが、高橋がなぜ尾崎と別れたか、その一因に彼の青年期の悲惨な体験があるように思われてならない。彼は16才の時、弟の悪戯がもとで片目を失明している。しかし、このことで弟を恨んだりすることはなく、翌年腸結核のため早世した弟をモデルに名作「死なす」を書き上げた。その年、極度の躁鬱病であった父親が精神病院に入院、まもなく死亡。息子と夫を失った母親は後追い自殺した。高橋には姉二人がいたが、わずかな遺産がもとで姉達とも縁を断つ。最初の妻との結婚に破れた30歳代にも彼は強度のノイローゼにおちいり、なんども自殺を試みている。晩年、末期ガンに犯された彼が医師の麻酔投与にあたって、もっとも怖じたのは「父のように狂気に襲われはしまいか」との危惧だった。 26歳。父母の忌まわしい記憶がまだ払いきれない繊細な神経の高橋が、頭痛止めのミグレニンを多用していた翠との生活に、過剰の不安を抱いたとしても不思議はない、と推察できるのである。 若い頃から宗教に造詣の深かった高橋は、晩年ますますその傾向をつよめ、独自の宗教観を確立、終生“生と死”を問い続けた。母方の里が寺であり仏教と縁浅からぬ翠の、晩年の心の安穏と、相い通じるものがあったはず。尾崎ファンとしては、せめてもの共通項を見出したいのである。 |
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